井口としは、平成四年五月十八日、夕映えのひとはけを道づれにあの深い青、むらさきの天空へ旅立った。 創業は易く、守成は難しと唐の太宗と功臣との問答にあるように俳誌「季節」の初代の主宰、金尾梅の門と三代目主宰、田邊香代子の間を単なる二代目主宰としての橋渡しではなく、ブリッジを構築するための楔を、力強く打ち据えて逝ったといえるだろう。 ちょっと饒舌になるが、ちょうどこの二ヶ月前に季節編集部、島みえより「三月下旬に主宰句集が発送されるので、鑑賞文を書いてほしい、俳句作品評に続いての依頼で申し訳ないが主宰の指名ですから」云々のはがきが届く。 私は日赤病院に入院が決まっておりパニック状態。ことわりの電話を入れなければと思いつつ、それが出来ない自分の愚鈍さに腹を立て、不遜にも島みえのバカッと泣きながら、肩で小刻みに苦しい息を吐いては1行、吸っては1行、コンピューターに入力した句集「十詩抄」の鑑賞文であった。 後日、大村伊久男から「走って持っていった原稿をひったくるようにして読んでおられました」と葉書をいただいたとき断らなくてよかったなぁと涙で頬をぬらした切ない思い出がある。 それでは井口としの文章浴に浸ろう。世間では日光浴をしてリフレッシュを計るが、私にとってのいちばんの贅沢は文章浴である。 としのことばの探求には漢詩、漢文から学んだものが多分に入っている。名前の「とし」も中国的な気配の延長線上に配していると考えて差し支えない。 このたび私が、お目に供するは井口とし著『俳句幻化』に納められた随想より抜粋したものを少しばかり料理に仕上げて、おめず臆せずご披露しようとの魂胆。 ことばの達人、としが編み出した軽妙洒脱な言の葉のかずかずに心の背筋をシャンと伸ばして、しばし目の端、こころの隅によみがえらせていただければ、望外のよろこびトホホ謹んで申す。
としの随想のなかの「酒」系の表現は、単なる日常語的な酒の言い回しの地層を突き抜けて、中国的なことばの香りが文章の随所に及んでいる。 幼少にして生母と離れる運命の皮肉をとしは『論語』のこころに触れ、それを通じて孔子にちかづくことの悦びを天の采配と感じたのではないか。 紀元前六〜五世紀の思想家、孔子と弟子達とのやりとりを記した論語には「酒無量不及乱=酒は量なきも乱に及ばず=孔子の酒量は決まっていなかったが、いくら飲んでも乱れなかった」とある。 世界の四聖であるソクラテスと、孔子は大酒飲み。釈迦は酒を禁じイエスは酒乱だから問題外である。 中国語の四文字世界に「酒肴別腸」という言葉がある。お酒には他の食物が入る胃腸とはべつの胃腸があり、人の酒量はその人の食事の量に比例するわけでもないし、体格に比例するわけでもないといった意味で使われていることが多いことばである。 江戸時代文化年間の酒飲み大会で最も飲んだ人が、1斗9升5合とのことで人間がどうしてこんな量の酒が飲めるのだろうと不思議な気がする。ところがフランス革命期の貴族サバランの書いた「美味礼讃」に、水では飲めない量を飲めるのが酒だとある。 この約2斗という量は想像を超えるが、昔にありがちな大げさな話ではなさそうだ。お酒ではないが、日本でも目一杯食べたあとに出されたデザートを目の前にして「甘いものには別腹があるのよ」などと言いながら、人の三倍位フルーツやケーキをぺロッと平らげてケロッとしているご婦人がいるのとおなじである。 一杯は人、酒を飲み、二杯は酒、酒を飲み、三杯は酒、人を飲む、といわれこの状態にいたれば、いきつくところはもう明白である。 江戸時代の儒学者、貝原益軒は著書、養生訓の中で「酒は天の美禄である。少し飲めば陽気を補助し、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁いをとり去り興をおこしてたいへん役に立つ。またたくさん飲むと酒ほど人を害するものはほかにない。ちょうど水や火が人を助けると同時にまたよく人に災いをする」とのべている。
鳩燗、鴨燗どちらも形が何となく鳩や鴨に似ているが、鴨は少々生臭い感じがする。鶯の徳利は、注ぐと鶯の鳴き声がするというもの、飲むと鳴る鶯の盃もある。イカ徳利は干したイカで作った徳利でイカの盃付でおつまみ兼用である。抱瓶(ダチビン)は最近の泡盛人気で有名になったピクニックスタイルの容器。 昔の酒はアルコール度数が今より低く、酒を飲む器は大きかったようだ。たしかに、浮世絵のさかづきを見ても江戸中期までは木杯が多いが、かなり大きく描かれている。ところが、その後、さかづきはだんだん小さくなり、昭和四十年くらいから民芸の広がりもあり、大きめなぐい飲みがふえてきている。そして最近は唇の切れそうな薄い小さなさかづきも重宝されている。 また一献にサカナが一種づつ付く。この場合三種類のサカナ、アワビ、エビ、モチとなる。とくにアワビにはタウリンが多量に含まれており、コレステロールの低下に有用であり、エビも高蛋白食で餅は腹持ちがたいへんよい。 これらのサカナをつまみに、ちびりちびり、ゆっくりやるのは悪酔いの防止にもなる。朱熹のよく知られた詩に「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」と言うことばがある。 老いは避けられない。しかし老化の速度を遅らせ、回春をくりかえしながら美しく老いてゆくことは努力することによって可能である。回春とは年が改まり、また春が巡ってくることであるが、また人が青春にたちかえり若返ることをも意味する。 不老長寿の秘薬などこの世にあろうはずがない。健康を保ち、精力増強には、数多くの種類のものを、バランスよく規則正しく腹八分目、よく咀嚼するのが一番。 その上、股尻三年といって尻を柳の風のごとく、フワリとさわる手もある。おお、酒席での艶ある手の作法。げにも微妙なる殿方のこころの作用とでも申そうか。 としの叙述は決してエロス的コミュニケーションを語っているのではない。酒の気分に生かされて人は物に感じ、物は人になびくといいたいだけなのである。 そもそも尻とは広辞苑の定義によると 「肉が豊かについている ところ」が尻になる。そうすると股尻とはいかなる部分を云うのであろう。 解かっているようで最もわかりにくい、股尻という名詞を学術的な見地から追究すれば、脂肪がついたご婦人ではなく、ズバリ若い女性専用語なのである。むかしから桃尻娘ともいうではないか。
造り酒屋の軒先に下げられている杉玉は酒ばやしと呼ばれている昔から新酒ができると店の前に杉の葉を立て、並べ、その売出しを知らせ、そのあとでその杉の葉を一つにくくって軒先につるしたのが、酒ばやしの始りだといわれている。 「寒い地には良酒あり」このことばどおり豊富で清冽なアルプスの伏流水と米に恵まれ良質の、そして独特の地酒を生み出した。すぐれた味とコクで「淡にして烈」と評価され左党をうならせてきた逸品を醸造元は、独特の銘柄でうりだしている。 私も酒の流れの意識にのせて、としの一種茫洋とした文章のひろがりを味わっている。今日、九月二十一日は中秋の名月である。不審船に連れ去られ、北朝鮮で土となった人たちの無残な死が浮かんでくるが「せめてほおけた芒でも眺めて酒を酌むのが私の慰藉というところであろう」と述べるとしのことばを引いて、やすらぎを満たそうではないか。
朝の連続テレビ小説「さくら」で日本中に飛騨高山弁がながれてえろう有名になってまって、あれこ〜わいこっちゃさ。そしゃ、飛騨弁の特徴ってことでざっとまとめてみるさな。話しことばの語尾に「さ〜」 な〜」の長音をつけることが多い。たとえば「そ〜なんやさ〜 「そしてな〜 などと語尾の長音に 抑揚をつけて情感をこめて話す。このように濁点のすくなさからくる、なめらかさに捨てがたい味わいがあるが、方言はどの地域にあっても若年層から次第に影をひそめつつあるようだ。 「さだかではございませんが」この言葉のもつ衒気に対してと述べているように、道を聞いた都会の紳士たちに対して多少の緊張感と衒いが生まれたものとみえる。緊張病性混迷=として衒気症という症状がみられる場合があるという。では「衒気」ということばを使った文章を例にあげてみる。 「遠慮をせずに定りどおりに厳格にやってください」と源氏から言われたのでしいて冷静な態度を見せて、借り物の衣装の身に合わぬのも恥じずに、顔つき、声づかいに学者の衒気を見せて、座にずっと並んでついたのははなはだ異様であった。若い役人などは笑いがおさえられないふうである。 『源氏物語』与謝野晶子訳 柵のないベランダは、酔っぱらったときなど危なくないかと陳瑞憲に問うと「落ちるのもいいじゃないですか」と笑う。私はそういう衒気は嫌いではない。 陳瑞憲『アジアのかたち』 丸谷才一氏が「文章はキザに書け」というススメを書いておられたと記憶する。いい意味での気負い、衒気が文章に緊張感を生み、読むものを惹きつけるということであろう。 『長島伸一』 としの叙述に照明されると、茶亭の女中さんをはじめ飛騨地方の女性の体から花々のきつい香気が放散してやまないようだ。生命力のしるしそのものである。私たちがいま生きている現代を、ほんの少し昔にさかのぼった明治から大正にかけては、養蚕が日本を支えていた。 その陰で十二、三歳の製紙工女たちの悲惨な生活があった。現金収入の少ない山村の農家の娘たちは、口べらしに信州へ糸ひきに出るのである。今、その年頃の子と比較するとあまりの環境の違いに生まれた時代の非情さを感じざるを得ない。それを映画にした名作大竹しのぶ主演の『あゝ野麦峠』がよみがえる。
「アカルサハ、滅ビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」とは、太宰治が小説「右大臣実朝」で実朝に言わせた台詞である。美しさが「滅び」の衣を身にまとうとき、そのあでやかさは言語に絶する。 太宰の言葉の裏に深部屈折をみせている逆説的なイロニーを見のがすことはできない。時代にとりのこされてむなしく花開く実朝の世界と、シベリヤから帰還したばかりのとしの無為に過ごす日々は表裏をなしていた。 としの俳句の「ほろびの色」の、叙述は実朝に言わせたセリフの「アカルサハ滅ビノ姿デアロウカ」の表情を持っている。
「人間のなかの欲動といったものを客観的に、歌として出したというのは茂吉が初めてだったといっていいのでしょう。それは精神病医だったからという見方もありますけれど、医者になる前からそういうことができた人です」 『茂吉の短歌を読む』岡井隆
春の花のように甘美な、秋の霜のごとく、きびしい表情のことばに触れた文章浴だった。どこまでも「井口とし的」だった。 2002.11 |